だいたいのことはひとりでも楽しい

一番大切にしていることは「精神衛生」です。

5ヶ月の空白を振り返る(2)

農作業は集中し出すと楽しく、余計なことを気にせずにいられたらよかったのだが、シンプルに仕事のみに集中できる時間は短かった。

 

いわゆる、「お局」と言えばわかりやすいだろう。キツめのお局様で、圧の強いパートの人がこの職場のずっしりと重く大きい岩石に思えた。

 

ここであーだこーだとぶちまけても仕方がないので省略する。

その人と一緒に仕事するには、的確で物事をはっきり言うところは評価すべきところだったが、和を大事にするとか、表面上だけでも褒める、まで行かなくても波風立たせないように、人の心を傷つけないように指摘するとか、そういう配慮には気を配らないところが精神的にきつかった。

 

でも、私は割り切って、

「この仕事をやりたくて入ったんだ」

「一人の人間の機嫌に気を取られるな」

「いろんな人間がいるし、育ち方もそれぞれだから受け入れよう」

「いや、頑張って受け入れることをしなくてもいい」

「我慢しないように、辛くならないように、仕事以外ではなるべく離れていればいい」

 

など、頭の中ではうまくやれている気がしていた。それに、周りのパートさんたちも同じような思いでいるだろう、我慢してるんだろう、と思っていた。

だから、口には出さないが仲間意識もあった。

 

ある日、お局様が休みの時、あるパートさんと二人だけになったことがあった。

彼女は私に、

「大丈夫ですか?」「休んだりしないんですか?」

と、休みを取ったことがない私に話しかけてきてくれた。

そんな話の流れで、女ばかりの職場ってキツくない?という話題になり、

やはり、彼女も私と同じ思いで、我慢していることが伝わってきた。

お互いの気持ちを共有できたことは、その時なにより救いに感じた。

 

それでも、お局様のキツさは変わらず、見えないところで、仲間のパートさんは私を気遣い、声をかけてくれていた。

 

けれど、徐々に私の動作ののろさが、お局のイライラを掻き立て始めたようだった。

 

日々、少しずつ加えられるジャブに、私は強気で、気力で乗り越えていられていると思っていた。

5ヶ月の空白を振り返る(1)

前回の11/8の投稿から5ヶ月も空いてた。

頭の片隅には書かなきゃ、書きたい、残したい、誰かに読んでもらいたいという気持ちがあるんだけど、どうも、時間の使い方がべらぼうに下手くそみたいです。

 

この空白の5ヶ月間については、実は盛りだくさんあったのよね。

これから順を追って書いて、そして現在に至る、と締めたい。

 

とりあえず、11月から振り返ります。

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8月にフルタイムの仕事を辞めて、WEB制作やデザインやらの在宅でできる仕事でなんとかやっていけないかなと模索していた10月頃、なんとなく眺めていた求人で気にかかったものがあった。

 

農業(ハウス栽培)。

 

私が住む田舎は、周りを見渡せば田んぼが広がる風景だが、職業としての農業の求人というのはあまりなかった。

私が実家にUターンした時、実は農業などのいわゆる「田舎ならでは」の仕事をしようかなとも考えていた。黙々と作業に集中することが好きだから。

だから、農業のパートの求人、しかも新規事業ということで、これは未来が見える気がする!と意気揚々とハローワークに出向いた。

そして、面接、採用、とトントン拍子で進んだ。

 

初めての農作業。とは言っても、農業体験などはこれまで何度かしたことがあった。東京周辺は、そういったイベントが盛んに行われていた。埼玉、神奈川、千葉へ行き、収穫体験や、収穫物のバーベキュー、1泊2日の農家体験なども。

 

だから、すごく新鮮な気持ちというよりは、ちょっとだけ”かじった”くらいの気持ちで作業をしたいし、もっと詳しくなりたいと考えてもいた。

 

ただ、そういった思いと同時に、しょっぱなから感じていた、この職場のアットホームな雰囲気との距離感をどうしようかなとも思っていた。ここでのアットホームは、「なんでも言い合う、さらに陰口多数」というもので、私の苦手とする空気感だった。

幸せについて

昨日の愛犬の散歩中、シュールな一場面があった。田んぼの真ん中で。

3人の人間と犬2匹。1人は白い犬を連れたおじさん、もう1人は杖をつく歩行が困難な中年と思しき女性、と私と愛犬。おじさんが連れた白い犬は、田んぼに囲まれた道路の交差点付近で座ってじっと動かず遠くを見ていて、飼い主のおじさんを困らせている。そこに私と愛犬が通りかかる。その後ろを、歩行困難な杖をついた女性が続く。その女性は、リハビリなのか、このあまり車が通らないタンボの真ん中の道を選んだようで、とても神妙な表情だった。挨拶した時に思い詰めたような目をしていたのだ(口元はマスクをしていてわからない)。田んぼ道の真ん中でその3人が無言のままじっとしている(うちの愛犬も匂いを嗅ぐので私も立ち止まっていた)。こんな光景は二度とないかもしれない。ゴダールの世界のようだった。

 

さて、このタイトルのことをずっと書こうと思っていた。思いついた時にはツイッターが便利。つぶやいたけど、ちゃんとここに書いて整理したい。

「幸せとは」なんて、大それたことのようだが、私はこれが頭に浮かんだ時に、「ああ、そうだ、そうかもしれない、しっくりくるなこれ」と思った。

それは、

「 ”幸せ”というのは、私にとっては、何かが ”ある” ことではなく、不安や心配ごとが ”ない” ことかもしれない 」

ということ。

このことがふと浮かんだのは、ここ1ヶ月くらいで読んだ2冊の本が影響しているのかもしれない。

 

1冊は『「山奥ニート」やってます。』。もう1冊は『クリスチャニア 自由の国に生きるデンマークの奇跡 』。

どちらもスモールコミュニティでの暮らしという共通点がある。その社会の中で働き、少量のお金を得て生活している。

「山奥ニート」については、オリエンタルラジオのあっちゃんのYouTube大学で紹介されていたのを観て興味を持った。私もちょうどニートだったこともあって。賛否両論あるようだけど、私としては”やったもん勝ち”だと思う。住人は親元から離れているので、引きこもりとも違うし、自給自足のようでそこまで畑の手入れをしているわけでもない。住人集落のお年寄りとの共生、相互扶助が成り立っている。各人、ほとんどの時間を自分の好きに使っている。これは幸せってもんでしょう。社会でうまくやっていけなくても、ここなら受け入れてもらえるかも、と最後の砦(?)のようなこの場所の存在は貴重だと思う。「ニート」と銘打っているからか、センセーショナルな強い印象があるが、実は日本国内にも色々な場所にあるようだ。かなり視野が広がる感覚。その感覚を持ちながら図書館で見つけたのが『クリスチャニア  〜』。

この本は、実はもっと前に図書館で背表紙だけ見ていて気になってはいた(パラパラと中身も見ていた)本だった。今が読みどきだ、ということだったのだろう。今回は迷いなく借りた。

北欧は幸福度が高いという統計は有名だ。やはりそこは福祉が充実しているという所以だろう。税金は高いが、老後の年金に困ることはないようだ。小学校から大学まで授業料は無料。他にもいろいろな税制があるのだろうがそれは今後調べるつもり。

デンマークなど北欧諸国に住んでいるからといって、誰もが幸福とはもちろん言えないが、やはり先々の経済的な不安は少なそうだ。私は独身で収入も少ないので、老後に10万円前後の年金でやっていかなければならないのは目に見えている。でも、今の生活は幸せだ。そう感じたのは働いていないときであって、仕事がなくて絶望することなく楽観的に思えているから。もちろん老後の資金がなければ不安だが、それを今考えたとてどうにもならない。いつ死ぬかもわからない。将来の不安がゼロというわけでもないが、とにかく今、心配や強いストレスもない。前職のストレスから解放されたし、今、新しい職場でのちょっとした面倒くさい点はあるが、心配や強いストレスというほどでもない。人間関係のトラブルもない。恋愛もないけど、今のところ面倒という気持ちが勝つので結構だ。今のプレーンな状態を幸せというのかもしれない、と結論づけた。いわゆる「可もなく不可もない」状態。満足な状態というのでもないけれど、これを幸せな状態と言っていいのではないかな。どうだろうか。

HSPの講演会/映画上映会 備忘録

先日、住んでいるところの比較的近くでHSPのイベントが開催され参加してきた。関東地方とはいえ、最近ホットな話題のイベントが、この県内で開催されるのは結構まれ。主催者様方、ありがとうございました。

 

まずはHSP映画上映。HSPの提唱者エレイン・アーロン博士のドキュメンタリー主体の映画だ。日本語字幕で観るには、いまのところこうした上映会で見る他はないとのこと。

まず、この映画作品で最も印象に残ったシーン。それは、男の子(おそらくHSC)が、両親の言い争いの様子を部屋の隅で見ている(これは再現ドラマのようだ)。母親は、HSCの知識があるのか、息子の繊細さを受け入れているようだが、父親のほうはそうではなく、男の子はフットボールなどのスポーツをやるべきだ、といわゆる「男らしさ」を求めている。そんな中、夫婦でセラピーを受け、実は、その父親もHSP(見た目の感じはそうでもない・・)であり、そんな自分が嫌だったのだろう、息子にはそうなって欲しくなくて母親とぶつかっていたのだ。受け入れ難い自分の資質を受け入れることの難しさ。セラピーを受ける前は、私も映像を見ていて、なんてひどい父親だ!と思っていたが、自分自身への葛藤、怒りが根底にあったのだと解ったら涙が出てきてしまった。また、この男の子がもしLGBTQの当事者だったとしたら…、と思うとより辛い気持ちになって観てしまっていた。

LGBTQとHSPを比較してみると、変えられない気質という共通の要素の面で近い反面、とんでもなく遠くもある気がする。LGBTQといっても、Tは受け入れざるを得ないのではないかと思われるので、自分のLという属性をとって考える。「HSP」という位置づけはすんなり受け入れられ、むしろ救われたような気分になった。これまでは、自分が取るに足りない人間、社会不適合者、内気で人見知り、雑談も苦手だし、人付き合いも苦手。友達も少ないし、1人で過ごすのが落ち着くし好き。すべて、その反対の人間になりたいと思っていた。でも、他にも同じような人がたくさんいて、もしかしたらHSPだったのかな、と思える、過去に出会った人たちも思い出され、仲間意識も出てくる。脳がパカッと開いて、新しい空気に触れたような感覚だった。

しかし、Lについては、ずっと認めたくないと頑なに否定していた。そんなんじゃない、と思っていた。世の中にも割といるんだ、ということがデータで分かった頃にはもう受け入れていたが、それ以前はこんなに少ない、珍しい人物、人に言ったら眉をひそまれるような存在だなんて、絶対に認めたくなかった。

当事者であることをすんなり受け入れられるかどうかが、まるっきり違うところが、遠くにあるという所以だ。社会の目、のせいかもしれない。社会の目とは、人の目。私自身が否定していたわけだから、他の人たちもそうだろう、と感じてしまう。そうじゃない人もいるかもしれないが、大多数は驚くことだと思う。だから、「自分はHSPだと”カミングアウト”」などと書かれているものには違和感を感じる。それがカミングアウトか?って。”カミングアウト”という言葉、昨今よく使われるが、今だにドキッとする言葉だ。おそらくLGBTQ当事者は敏感に反応する言葉だと思う。

話は逸れたが、LGBTQもHSPと同等くらいの属性になって欲しいなと思う。

 

そして講演会。スピーカーはHSPの子を持つ、ご自身もHSPである女性で、各地で講演をして周っていらっしゃる。声や話し方のトーン、スピードがとても心地よいかたで、ずっとお話を聴いていても飽きないかもしれないと思った。そうした音に対する敏感さもHSP当事者さんゆえに考えられていると感じた。そして、講演の中で印象深かったことを箇条書きで書き出す。

 

HSPは遺伝であることが多い

・HSSは、アクセルとブレーキを同時に踏んでしまっていて、途中でしんどくなるタイプ

・「清水(きよみず)」という単位(後述)

・飲み会の2次会をうまく断る方法(後述)

・HSCは、精神年齢が高いとされている。+5〜8歳くらい。

・幸せというのは、脳や心で感じるというよりも、内臓から感じる(!)

 

などなど。きちんとレジュメも配布されていて、「学習」という面もあった講演だった。

「清水」というのは、”3清水”、”100清水”などと使うらしい。スピーカーさんの周囲のHSPさん仲間が使っているそうだ。どう使うかというと、「清水(きよみず)』とは、「清水の舞台から飛び降りる」の「清水」。どれくらいの覚悟、勇気がいるかを数字で表しているとのこと。こういう細かい単位を作るというのは面白い。人間が違えば、その清水の舞台の高さ概念も違うだろうし、測れない量的なものを「見える化」すると、よりその人のこの感覚が掴みやすいだろう。”100キヨミズ”は相当な勇気なのだろう。

そして、2次会をうまく断る方法。その飲み会参加者の中で、1人でも信頼できる人にあらかじめこう言っておくのだ。「途中で帰るかも」。「かも」が重要。もしかしたら盛り上がって行くかもしれないし、というのを匂わせておく。2次会に行く気満々な人に、飲む前から行かない、と言ってしまうと、なんだかテンション下げてしまいそうだから。そう言っておいて、いいタイミングでスッといなくなる。それが一番いい方法だそうだ。2次会って、行きたい人だけでいいじゃん、と思うんだがね。

 

ということで、濃度の高い半日を過ごせた。ただ、あんまりHSPを意識しすぎるのもよくないと思う。これまでの自分をなかったことにしないでやっぱり土台にして生きて行くんだと心した。

「ぼくが性別『ゼロ』に戻るとき」鑑賞備忘録

この映画を知るきっかけとなったのは、NHKETV特集かな?ドキュメンタリー作品だった。のちに知ることになったのは、TV版は映画の短縮版だったこと。しかも、9年間も性的マイノリティの1人を追い続けている作品は、私は他に知らない。映画としての作品も観なければ!と思っていた矢先、近くのミニシアターで上映されるとのことで、早速行ってきた。

 

まず、私がこの作品の主人公の言葉で最も印象深く、あ、私も!と思った言葉が、まさにこのタイトルの”「ゼロ」に戻る”という言葉だった。

主人公は、生まれたときの体の性別が女性で、心は男性という性同一性障害(性別違和)の中学生。学校や社会で様々な問題にぶつかる。

”自分は今マイナスのところにいる。みんなはゼロからプラスに行くけど、自分はまずゼロに戻らなきゃいけない”

 

私の中高時代もそんな感じだった。

みんなは好きな人がいて、告白するかしないか、バレンタインにチョコを渡すのかどうするかの世界で生きている。

私は、好きな人すら友達に言えない。その時点でもう、スタートラインが違うのだ。出遅れた青春時代?みたいな。

この”ギョーカイ”の人はわかると言ってくれるかもしれないが、恋愛デビューは20歳過ぎの人も多いと思う。だから、20代半ばでようやく中高時代の遅れを取り戻すかのように、恋愛に勤しむこともよくあると思う。”ギョーカイ”の人で、初めて会った人に、なんとなく「好きかも」みたいな、錯覚のような恋をしたり、相手から「好き」と言われて、やっぱり「あ、私も、かも…」みたいな、本心かどうかも分からない関係を築いたり……。

このドキュメンタリー映画の主人公は、恋愛をしたのだろうか。作品の中では語られていないが、おそらくいたに違いない。

 

そして、性別適合手術を終え、戸籍上も男性となった主人公が辿り着く性別が、Xジェンダー、ということ。この展開に惹きつけられて、NHKの番組を観た後に、思わず友達にこの番組の話をした。なんだこの、丸く収まらない感じは!

Xジェンダーというカテゴリー?ができて、とても救われた人は少なくないと思う。私も、どちらかといえば中性的だと思うからだ。性自認は女性で、生まれた時の性も女性の私だが、胸は豊満じゃなくてよかったーと思う。もし豊満だったら、なんとかして(サラシ巻いたかも)ペッタンコにしたに違いない。胸もお尻もペッタンコが自分らしいと思う。

これもXジェンダーと言われればそうかもしれないけど、性別欄には迷いなく「女性」に○を付けるし、男に間違われたくないから、そうじゃないと思う。

 

LGBTQの一員である私だが、本当に他の人の性自認なんかはわからないものだ。「LGBTQ当事者だから」と、知った気になってはいけないとこのドキュメンタリーを観てそう思った。個のストーリーは、100人いれば100通りあると思う。会ったこともない主人公の記録を見ていて、目が覚めた気分だった。

カネ恋をようやく観れた

さきほど、「おカネの切れ目が恋のはじまり」最終回をようやく観ることができた。アルコールの力を借りて。

スタッフさん側、出演者側の方々の思いはいろいろあっただろうと思いながら観ていたので、ストーリーがあまり入ってこなかったというのが正直な感想。予定では10話とか完結だったのかな。

 

正直、まだ三浦くんの他界が受け止められていない。

自死」ということがよりいっそう受け入れられない要因だわ。もし、コロナ感染での逝去だったとしても、受け止めきれないかもしれない。

最近、ファンになってよく観ているYoutuberがいて、彼は三浦春馬くんに似ている。

フォロワーさんもそう言っている人がいるようで、その当人も三浦くんの死を2日間くらい引きずっていたようだ。

彼がYoutubeで言っていた言葉が印象深い。

2020年は、ほんと強制終了したいって感じなんだけど、今年生きて過ごせたら、それだけですごい、OKってことだと思う。

というようなことを言っていて、まさにその通りだと思った。

私個人的には、コロナの影響で仕事を失ったとか、身近な人を失ったとかいうことはないのだけれど、この同じ時代、同じ社会で今生きている人たちの出来事を見、知るに付け、「サヴァイブ」という言葉がぴったりくると感じる。

 

まだまだ、書きたいことが頭の中に収納されていて今後アウトプット予定だが、しばしその時を待とう、といったところだ。

10/2夜な夜なベッドの中で書いたもの

生理痛もあって落ち気味。今日買った缶チューハイを2本飲んだ。

 

人が自ら命を終えようとする時の気持ちを考えてしまう。どうしたって考えてしまう。

周りの人に何の疑念も持たれずに過ごして、終わりにしようとする気持ちを、どうしたって考えてしまう。

 

そんな気持ちの中で、

私なんて取るに足らない存在、もう死んだっていい、

と思ったりもする。

かと言って、死にはしない。

 

そんなに近くに断崖絶壁の頂点があったんだっけ?

 

三浦君の部屋には遺書はなかったそう。当初の報道では遺書が見つかったとあったが。

 

何もいい残さないまま、

行ってくるね!

みたいな感じで行かないでよ。ショックすぎる。

 

明日も居るって、普通に居るって思って私たちは過ごしている。

 

「自殺罪」という法律上の犯罪はないよ。自由の範囲内かもしれない。

 

でも、「罪」だよ。

こんなに多くの人の気持ちを引っ張ってる。実は重い罪だ。

こんなに多くの人を眠れなくしてる。重い罪だ。

本人の自由、かもしれないけど、罪だよ。